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私は幼少の頃より、何故自分がここに在るのか、何故世界が在るのかということをぼんやりと考え続けています。そして仏教、宇宙科学、量子力学、生物化学に影響を受け、世界の不確かさ、曖昧さを確信します。物質と呼ばれるものから生物や国と呼ばれるものまで、あらゆる全ては出来事によって構成されており、出来事の連続体なのではないか、と。私はこの曖昧に漂う自身を含めた世界そのものに関心があり、“存在について”を主題として作品制作を行なっています。
今日、技術の進歩目覚しく、仮想現実や拡張現実、生成AIによって作られた画像や動画、フェイクニュースなどの虚構と呼ばれるもの達が溢れ出し、まるでSFの如く虚構と現実が混じり合っていく様な感覚を覚えます。
でも、虚構と現実が混じるというのは別に今に始まったことではありません。
約7万年前に起きた認知革命から私達人類は虚構を生み出し、拡散し、信仰し、現実の一部としながら現代に至るまでその歴史を紡いできました。精霊や神、企業や国家、言葉や数式、経済や芸術などといったものは全て私達が共有している想像に過ぎず、それらに触れることは出来ません。そして、私達人類はその想像を信奉することで団結し、争い、ここまで人口を増やしてきました。人類は虚構を現実のものとし、虚構と共に生きているのです。
ここで疑問が湧きます。
虚構とは“存在しない”ということなのでしょうか。
現実とは“存在する”ということなのでしょうか。
そもそも“存在”とは一体なんなのでしょうか。
例えば量子物理学では、物体や光や重力などといった全ては素粒子と呼ばれるもので構成されているといいます。そして、その素粒子はそこにあるのにそこにない、確率として漂っている霧の様なものであり、場の揺らぎであるとされています。その素粒子自体が実体のないあやふやなものであり、現象の様なものなのです。
不確かなものが関係によって確かなものとして成立し、関係が関係のネットワークを築き、巨大なネットワークを構築し、そのネットワークこそが自分やその自分を取り巻く世界なのではないでしょうか。
そんな幻影の様なもので構築されたものが現実だとして、果たしてそれは虚構と呼ばれるものと一体どれほどの差異があるのでしょう。巨視的に見ればそれらはほぼ同一のものなのではないでしょうか。
SFの様な世界へ向けて加速度的に技術が進歩していくこの過渡期である今だからこそ、私は“存在”という主題に取り組みます。
私がこれまで展開してきた「emptyシリーズ」は“波”をモチーフとしています。
“波”というモチーフは一定不変の事物はないということを端的に表し、また、世界の最小単位を記述する量子力学においても非常に重要な意味を持っています。世界は“波”で出来ていると言っても過言ではないかもしれません。
タイトルの「empty」とは[空っぽの~、中身のない~]といった意味を持つ形容詞です。
何故その形容詞をタイトルに据えているのかといえば、それはこの作品を含めた全ての事物に本質、中身などというものは詰まっていないのだ、という考えによるものからです。
このシリーズにおいての中身とは、その作品としての物体と鑑賞者としてのあなたの間にある結び目のことです。さらに言えばそこに製作者である私も加わりますし、実を言うともっと多くのものが関わってきます。あらゆる事物の結び目という関係こそが中身であり、意味であり、存在なのではないでしょうか。
作品上で結ばれている“関係”に目を凝らして見ていただければと思います。
1994 石川県金沢市に生まれる
2016 京都芸術大学 日本画コース 卒業
2018 京都芸術大学 大学院 修了展「優秀賞」受賞
2018 京都芸術大学「シュレディガーの猫展」出展 東京都美術館/東京
2018 京都芸術大学 大学院修士課程 ペインティング領域 修了
2018 京都芸術大学「画心展2018-Selection Vol 15」 優秀賞 受賞 佐藤美術館/東京
2019 ZEN展 優秀賞 受賞 東京都美術館/東京都
2020 Artistsʼ Fair Kyoto 2020 公募 入選 京都文化博物館/京都
2020 IAG AWARDS 2020 入選 東京芸術劇場/東京
2020 ANKNOWN ASIA 2020 ONLNE レビュアー賞×1 受賞
2022 ART GOSE ON -Session 3 / MOVE ON (Yes, art goes on )- 出展 SEASID
STUDIO CASO /大阪
2022 個展「-それは波としてそこに現れる-ψ」STUDIO DIFFUSE MAKE+/大阪
2024 個展「曖昧」GALLERY Ami - Kanoko / 大阪